坂庭修 問わず語り

出がらしにだからこそできる役目や若い奴らに残せることがあるんじゃないか

もしもピアノが弾けたなら

  今日、西田敏行が亡くなったというニュースが。昭和の個性的な俳優がまた一人亡くなった。
 自分が中学校の3年生の担任だった頃、合唱コンクールの自由曲に生徒が彼の「もしもピアノが弾けたなら」(作詞:阿久悠)を選んだ。この時はなんとダントツで最優秀賞に選ばれ、私にとっては忘れられない曲となった。
 当時は学年ごとに合唱コンクールが年に1回(2回の時も)あって、音楽の教師が選んだ課題曲とクラスで決めて良い自由曲の2曲で最優秀賞を目指した。若かった自分はなんとしても他のクラスに負けたくない、といつも意気込んでいたように思う。生徒の選ぶ曲は当時はやっていた歌謡曲が多く、合唱曲に編曲された楽譜がないものがほとんどだったし、音楽科の教師からすればそんな曲を選んで!と白い眼で見られていたのだと思う。それでも子どもたちが歌いたい曲をクラスの自由曲にしようと思った。コンクールでの評価は低くても自分たちの達成感、満足感が高ければそれは素晴らしいと思った。音楽的な価値は低い。でも行事は学級づくり、人づくりのためにあると、若さゆえ、信じていた。
 そんな懐かしい想い出が、彼の訃報とともによみがえった。

 写真はわが家の玄関に飾られている花。キクイモやイヌタデヨウシュヤマゴボウなど雑草や野菜の花である。西田敏行に捧げる。

 私も、ピアノが弾けたなら、と思う時がある。

 左は1986年の学級通信、右はこの時の3年生の合唱をレコードにしたもののジャケット裏。